こんにちは。
佐々木です。
最近自らを高める為に何をしたらよいのか。
色んなことを試してみては、切って、また試して、続けてみたり、また切ったり。
何をしたらいいのか、何が正解なのか、これがなかなか難しく迷走中なのですが、
そんな中で思ったことを。
正解っていう言葉が少し変?なんて思ってみたりしたのですが、
正解って本来ないものなのでは?
逆に存在するならそれは凄く曖昧なもので、必ずしも他の人に当てはまるものではないものなのでは?
むしろ当てはまらない事の方が多いのでは?
そんなラビリンスに勝手に特攻かましてます。
色々考えた挙句出た答え、正解が、
「正解」っていうのは常識とか当たり前ってことから生まれたものなのではないのかと思うわけです。
ちなみに今現在で世間的に使われてる「正解」って言葉に対しての考え方です。
根性捻じ曲がってんなオイ!と言われかねませんが、
あくまで必ずしも他の人に当てはまるものではないもの、
いわゆる自分の中の答えってやつです。
何をワケワカメなことをと言われればそれまでですが、
正解って本来人それぞれであるべきなんだと思います。
学生時代を思い出して下さい。
国語のテストで、この文における著者の気持ちを答えよ。
みたいな問題が出たと思います。
今思うと「んなもん知るか!俺は著者じゃねぇ!!」となるのですが、
当時は何故かその問題が解けて、正解となるわけです。
でもこの正解っていうのは、著者がどう考えてるか言ってた訳でも無く、
問題を考えた人が、
こういう書き方がされていれば普通はこう考えるだろう。
常識的に考えて・・・とか、
答える側ももちろん同じ様に考えてる訳です。
全部常識の上で考えて導き出した正解になりますよね?
極端な話、算数だってそうです。
1+1=?
普通は「2」?そうです普通は「2」
その普通はどっからきたのか。
先人が考え出してくれた計算法を、長い年月を掛けて世の中に浸透させてきたから
この正解が出せるわけです。
つまりいつの間にか皆様の常識となっているわけですね。
別にこれが悪い訳ではありません。
むしろこれ自体は偉大な発明であり、日常生活に於いて非常に助かるものでありがたい話です。
ただ常識っていう部分に捉われて、むしろ囚われて、
正解が1つだと思ってはいないかなと、自分自身もそんな考え方になっていないかなと、
もっと柔軟にと思った次第です。
国語だったら、
「その著者の気持ちは解りかねますが、僕がこの文を書くならばこういう気持ちで書くでしょう。」
こんぐらいでもいいのだと思います。
ただの反抗目的ならどうかな?って思っちゃいますが、
自分の信じるもの、思った事を真っ直ぐに書いたのなら、それはカッコイイと素直に思えます。
算数だってそう、
1+1=田んぼ「田」とか答える輩もいますが、それも考えた結果なら素晴らしい。
1+1=3 何故ならお母さんとお父さんがくっついて僕が生まれたから1+1=3。
なんて言われてしまえば、それは否応なしに可愛すぎる正解です。
僕が親ならキュンキュンします。いや親でなくても言ってる現場を見たらキュンキュンします。
ちょっと脱線しましたが、
つまりは正解というのは本来各々の考え方。
結果的にその人にとって心からよかった、正解だったと思えればいいものだと思うのです。
今、自分が追いかけてる正解というのに、常識が混ざっていませんか?
混ざってても構いませんが、心からよかったと思えそうな正解ですか?
別に正解は1つじゃありませんよー。
そこに拘らずに色んなことを試してもいいんですよー。
こんなことを考えてたので、よかったら考え方の一つとしてお裾分けさせて頂きます。